以前から前輪の修理の依頼があり、引き取りに山車蔵へ・・・
昨年 ブレーキ修理をきっかけに点検を依頼されて、
そのときに不具合を発見・・・!
釜金が緩み空回りしていた状態・・・
そのため周りの木部が楕円に磨耗してしまっていた。
おそらく 2~3年このまま引廻してしまってたんだろう・・・
大事に至らなくて良かったです。
坂之上は私が幼少期(2才~8才)に育った街です。
個人的に好きな街です。。。
私が育った頃、極端なこと云えば醤油や塩など隣近所で借りられるくらいの
そぅ 坂之上はモロ下町でした。
「あの子はドコの子だから」って、知られてしまってるから
ヘタに悪戯なんて出来ないくらいの人も建物も密接した地域でした。
幼き頃の祭りの記憶は薄れません。
屋台に乗りっぱなし、乗せて貰ったはいいが降りられないから
やさしそーなおじさんを選んでは
「おじさぁ~ん オシッコ~降ろしてー」なんて。
しかし、降りたら最後 空いた場所の争奪戦!
当時はガキだらけでした。
なるべく降りないよう架木を握り踏ん張ってました。
当時の親は放任主義っていうか・・・迎えに来てもらった憶えもない。
夜ともなれば現在の祭りとは形相が違い、
ひどい酔っ払いやあっちこっちで喧嘩や小競合い。。。
血まみれのおっさん とか・・・怖かったぁ、降りるにも降りれない。
だから山車格納まで、いつまでも乗ってた記憶があります。
最後まで居れば誰かが降ろしてくれるんじゃないかと
ずーっと乗っていた。
しかもその当時は規制も今ほどじゃないから
格納は午前0時はとっくに過ぎていたと思ぅ。。。
幼き頃の自分にとって山車の乗り心地は揺りかごのようでした。
☆ 彫刻は全て外して保管しているようです。
特徴的なのは、[画像] 屋根上部の黄金色のアーチと前部(一層部分)
逆Jの字のトーチ、
アセチレンガス照明デス。 明るいし、迫力あります。
「バァーバァー・ボォーボォー・シュワァー・ジョワァー・・・」
何て表現したらいいか。。。
一見の価値ありますよ。是非、祭り当日(10月)観てください。
心誠社の山車について もぅ少し語ります。。。
棟梁:平野 孝(掛塚) 昭和12年製作。
現在の四輪二層(入母屋造り)の形が確立された初期(時期)
にあたるんじゃないかな。
先代の中泉型弐輪山車(明治35年)は菊川4丁目で現役活躍中。
地域編成から自治区が増え始めた明治中期以降~
大正3年頃までは9ヶ町からなる9台の山車祭りでした、
すべて弐輪山車デス。
「中泉型二輪山車」といいます。
詳しくは→マイリストにも張付けてる☆ 遠州中泉 府八幡宮祭典
http://www4.tokai.or.jp/nakaizumi/index.htm 御覧下さい。
祭や山車の紹介・歴史など、
特にお祭り新聞は興味深い記述などがあります。お勧めです。
棟梁 平野 孝(掛塚)といえば
平野式 [大唐破風前一層部分屋根高欄] で知られてますが・・・
同中泉、昭和9年製作 石渓社(石原町)の山車がそれにあたります。
同じ棟梁の製作でも形式の違うもの 「心誠社」と「石渓社 」
見比べるのもおもしろいと思います。
比べるといえば、
「中泉の各町の屋台はなぜ形式がバラバラなの」って
いう疑問をよく懐かれます。
もちろん当初は弐輪ばかりで今も4台が残り、
うち3台は現役です。(1台は保存)
当然、時代と共に道路事情も良くなり
四輪へ移行されはじめたんでは・・・。
だが 中泉は弐輪も現存する中、四輪でも形式はいろいろです。
一層・二層・平野式(一層部分屋根)・
向拝・上下稼動上山付など・・・があります。
単純にこうだと思います=オラが町が一番・隣町にマネしたくない、
他町とは違う物。
サービス業でいえば差別化。
ファッションでいえばアイツと同じ服や同じ店のものは着たかねぇ~
精神(笑)からじゃないんでしょうか。
日本人の心の片隅にある特有の気質かも。。。
誰に宛てたのでもなく長々と・・・語ってしましたm(_ _ )m




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